「光あれと言えば、光があった」神と人は違います。「富あれと言えば、富があった」と思い違いをする欲に目がくらんだ人々は、生産性などと偽りの概念を持ち出し富の源泉が何であるかを見失っています。
「現実を見ろ」と言う人たちがいます。はたして彼らに「マーヤーの垂れ幕」の彼方が見えているのでしょうか。太陽に背を向けた「洞窟の住人」同様に、事物の影を現実と思い込んでいるに過ぎないのではないでしょうか。「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」と呼ばれる妄念にとらわれる人々に真実は見えません。
コトバと現実のずれは人々を困惑させます。「論語 子路第十三」の中で孔子は、「必らずや名を正さんか」と言います。弟子の子路が孔子に政治について尋ねた場面を描いたものです。「名実ともに」という表現がありますが、役人がその名にふさわしくない実態しか備えていない現実を嘆くのは昔も今も変わらないようです。
リルケは【「神さまの話」 発行:株式会社新潮社】で祈り方が変化したことについて次のように語っています。昔のひとは両腕を広げて祈っていたのに、新しい信仰が興って今では合掌によって祈るようになった、と。そして、「両腕をひろげる身ぶりは、ついに、卑しむべき、邪悪の振舞いということになりました。そうして、後には、それが苦難と死の象徴にほかならぬことを、諸人に、示すために、それを、十字架へ、はりつけにしてしまったのです。」
樹木が根を地中深く伸ばし枝葉を空に向けて広げるように、かつて祈りは恩寵を受容する姿で行われていました。それが、手を合わせ願いを乞う形に変えられたというのです。平等に分け与えられるものから、自力作善の成果への変化。井筒俊彦は【「読むと書く」 発行:慶応義塾大学出版会株式会社】の中で、ザマフシャリーの社会批判の言葉を引用しています。「現世は虚偽と欺瞞 人間は信仰なき異端」、「嗚呼、この世は日々に退化して止まらず」。
先人たちと同様にコトバを読むことと書くことについて危機感を募らせる若松英輔は【「生きる哲学」 発行:株式会社文藝春秋】の中で以下のように呼びかけます。「自分の魂を、真に揺るがすコトバはいつも自分から発せられる。人は誰も、コトバという人生の護符と共にある。コトバは見出されるのを待っているのである。」
コトバとは何か。SNSによって読むことと書くことがより身近になったはずの現代において、借り物のコトバにすがりバズりや炎上と表現される現象に多くの人々が一喜一憂する様を見ると、むしろコトバの意味を考えることを忘れてしまう罠にはまっているように感じます。論破などという二項対立的相対性の狭い概念上でしか成立しない愚行がもてはやされる現代は、かつて祈りが破壊されたときのようにコトバが破壊されないとも限りません。
わかりやすさだけにコトバの価値を見出すことは危険な行為であることを、様々な本を通じて先人たちは私たちに語りかけてくれます。今日はリルケの命日です。最後に同じく「神さまの話」から引用したいと思います。「でも、いつかは、子供たちにも、闇を愛する時期が、訪れるでしょう。そうして、闇から、僕の話を、受け取ってくれるでしょう。また、そのころになれば、子供たちも、この話の意味が、いっそうよく、理解できるにちがいありません。」 R.03.12.29