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パレーシアと耳順 対話をなくした政治への危惧

 弊社ブログ記事「パレーシアとグレタ・トゥーンベリ 近代国民の心構え」で、発言することの意味を考えましたが、対話を実現するためには発言だけではなく言葉を受け取る行為も大切です。

 

 今月1日の朝日新聞「折々のことば」で、鶴見俊輔さんの著書【「思い出袋」 発行:株式会社岩波書店】が取り上げられていました。その本の中に、「耳順(じじゅん)」という言葉について語られている章があります。「耳順」とは【孔子がみずからの六十歳の心構えを述べた言葉】で『論語』の一節です。

 

 鶴見さんは「耳順」の意味をまだわからないとしつつ、【自分がよく人の言うことをきいて、まちがいないと思う人をえらび、その人の言うことから、さらに自分に適切な、意味の可能性を引き出す】心構えのことと思うようになったと仰っています。そして、【相手の言うことをゆっくりきかずに「あなたはまちがっている」と決めつけるのは、自分のただひとつの解釈によって相手をたたきのめす習慣で、それが欧米から日本に移ってきて、学校秀才のあいだに広く行われる。】と嘆いておられます。

 

 また同書で『アニミズム』について触れる中で柳宗悦の逸話を紹介しています。【晩年モノとヒトとの区別をなくし、すぐれたモノには、ヒトに対すると変わらぬあいさつをしたという。】モノにも命があると考え、そこにお互い助け合う関係性を見出すことは、命あるヒトとヒトの関係であればなおのこと大切なことです。相互扶助思想を追求した柳宗悦の姿勢は、「六十にして耳順(みみしたが)う」にも通じるもののように感じます。

 

 最近は「論破」といって、議論を勝ち負けで終わらせる風潮があります。一方的な主張を通すやり方は単なる自己満足に過ぎず、そこに対話は存在しません。冒頭の「折々のことば」で鷲田清一さんは、【権勢を手放したくない者、面子(めんつ)を護(まも)ろうとする者は、自らの主張を反証するような事例を認めようとしない。これに対し、学問を志す者は自らの仮説への反例の出現を歓迎する。】と仰っています。

 

 反学問的な姿勢で学問を語ることほど愚かなことはありません。ヒトは安穏と権力に居座り続けると、耳の痛い話は聞きたくもなくなるのでしょうか。「耳順」は『論語』の「為政篇」に収められているように、政治において心掛けるべきことと考えられます。

 

 パレーシアと耳順。西洋の哲学も東洋の哲学も、命あるヒトとヒトをつなぐヒントを与えてくれます。そして命あるヒトとヒトをつなぐことこそが、このコロナ禍で政治に求められていることだと思います。      R.02.12.04