カントは【「道徳形而上学の基礎づけ」 訳者:中山元 発行:株式会社光文社】において、「人間を抜け目なくして自分の利益を図らせることと、人間を有徳な人にすることは、まったく別の事柄である。」と述べています。
道徳的な感情ではなく自然な感情に基づく経験的な原理は、「人を有徳な行動に向かわせる動因と、悪徳に向かわせる動因を同じような種類のものとして扱い、巧みに計算することばかりを教えてこれらの動因の種的な違いをまったく消滅させてしまうので、道徳性の土台を掘り崩し、その崇高さを完全に破壊してしまう」ため、「道徳性を確立するために貢献できない」と指摘しています。
商売を続けていくという自分の利益のために、客の足元を見ずに公平に商品を売る行為は、道徳に適った行為ですが、道徳的な意志に基づいた行為ではありません。これと同じようなことを孔子も論語の中で述べています。
「子曰く、これを導くに政を以ってし、これを斉うるに刑を以ってすれば、民免れて恥ずることなし」【『論語』為政篇】
法律や罰則による統治では、法の穴をつくような恥知らずな行為を許すことにつながると指摘したものです。俗に「法律に則って」いるから何をしても良いわけではないことを我々は本能的に知っていますが、現在の法治国家と言われる日本や世界の国々では恥知らずな面々が大手を振って活躍しています。孔子もカントも、このような恥知らず達をのさばらせないようにするために、その考えを書物に著したはずです。
アメリカがパリ協定に復帰したこともあり、企業のサスティナブルな取り組みに関する話題が持ち上げられる今日この頃ですが、市場原理主義・トリクルダウン仮説などが跋扈する経済社会のままでは、過剰生産を止めることは難しいと思います。「サスティナブルな商品を買おう」などと言って、結局消費のトレンドが変わるだけでは本末転倒です。
自立と他律の違い。持続可能な社会を実現するために何をすればよいのか、西洋でも東洋でも古典がはっきりと指し示してくれているように感じます。 R.03.02.20