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よりよき世界を求めて 知識の源泉と民主主義

 カール・R・ポパーの著書【「よりよき世界を求めて」 発行:株式会社未來社】に収められているザルツブルグ大学で名誉博士号を授けられた際の講演から、以下引用したいと思います。その講演の主題は、「いわゆる知識の源泉について」です。

 

 【ウィーン学団のリーダーだったルドルフ・カルナップの晩年の著作のなかにさえ、次のような個所を読むことができます。

 もし君がなにかを主張するならば、君はそれを正当化しなければならない。そしてこのことは、君が次のような問いに答えられなければならないことを意味している。

 君はそれをどんなところから知ったのか。君の主張は、いったいどのような源泉を拠りどころにしているのか。どのような知覚が、君の主張の根底にあるのか。】

 

 ポパーはこの問いを満足できない問いだと切り捨てます。

 

 【わたくしの主な論点は、これらの問いが人間の知識に対して権威主義的な見方を前提にしている、ということです。これらの問いは、われわれが知識の源泉のもつ権威、とくに知覚の権威を証拠として引き合いにだせるとき、そしてそのときのみ、われわれの主張は受け入れられるということを前提にしています。

 これに対するわたくしの主張は、そのような権威など存在しないのであり、あらゆる主張はいつであれ不確実であるという可能性を免れえないということです。】

 

 ポパーは知識の源泉についての問いを別の問いに置き換えるために、知識論における伝統的な問題設定を国家論における伝統的な問題設定に置き換えて、論点をわかりやすく示しています。

 

 【知識の権威ある源泉はなにかという伝統的な根本問題は、プラトンによって立てられたような国家哲学の伝統的な根本問題、すなわち、「だれが統治すべきであるか」という問いに対応しています。

 この問いが要求しているのは、権威主義的な答えです。伝統的な答えは、「もっとも善良な者」とか、「もっとも賢明な者」ということでした。しかし、これとは別の種類の「民衆」とか「最大多数」などの見かけ上は自由主義的な答えにしても、権威主義的な問題設定の枠内にとらわれたままです。】

 【わたくしは、その代わりに、まったくほかの、そしてかなり謙虚な問いを立てることを提案します。それは、「(われわれが当然避けようとしているにもかかわらず、あまりにも簡単に現れてきてしまう)悪い支配者、無能な支配者がもたらす害悪を、可能なかぎり最も少なくなるように政治制度を築き上げるためには、われわれにはいったいなにができるのであろうか」という問いです。】

 【わたくしの考えでは、民主主義は、このかなり謙虚な問いに対する答えとしてのみ理論的に基礎づけられうるのです。それは、「民主主義は、悪い、無能な、あるいは独裁的な支配者を、流血なしに罷免することを可能にする」という答えです。】

 【わたくしは、理想的で誤ることのない支配者などいないのと同様に、理想的で誤ることのない知識の源泉などもないし、知識の「源泉」はなんであれ時としてわれわれを惑わせるものであるという事実から出発することを提案します。ですから、知識の源泉についての問いを、これとは根本的に異なる問い、すなわち、「誤りを発見し、排除する方法はあるか」という問いで置き換えることを提案するのです。】

 

 混迷を深めるコロナ禍の世界に光を照らしてくれるようなポパーのこれらの提案に対して、私は賛意を示したいと思いますが、みなさんはいかがでしょうか。      R.02.12.14