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なくならない児童虐待の背景 希薄な人権意識

 今年4月1日から法律で子どもへの体罰が禁止されました。子どもへの暴力を体罰と表現することに対する違和感については、前出ブログ「自粛要請と体罰 言葉の持つ重み」で述べましたが、根強い体罰容認論の存在について考えたいと思います。

 

 保護者や教師の中には、自身が体罰で救われたかのような体験を語る人もいます。また、子どもが嘘をつく、話を聞かない、反抗的な態度をとるなどの理由から、「子どもを正しく導くため」に「心を鬼に」して「真剣に子供と向き合う」結果としての体罰だ、などと体罰の正当性を力説する人もいます。はたして、その程度の話で暴力が容認されても良いのでしょうか。

 

 自身の成功体験に引きずられる人は、どの世界にも存在します。職場などで上司から、限られた少ない経験の、しかも数十年前の話を持ち出されて、相槌を打ちながら聞き流す経験をされたことのある方は少なくないと思います。成功体験に引きずられるのは、その成功がレアケースであり、自分はただ運が良かっただけなのだとは全く考えない、想像力の欠如がなせる業なのでしょう。

 

 反抗的な態度をとったりするなど、おとなしい子供ばかりではないのも事実です。育児や教育現場などで、そんな子どもの相手をせざるを得ない状況に疲弊する大人たちには何らかの助けが必要です。しかし、嘘つきで、人の話を聞かない反抗的な態度をとる大人にたいしても、子どもに対するように暴力をふるう人はどれだけいるでしょうか。大人には手を出せないくせに、子供のためにとか、真剣に向き合ったからとか、ただの言い訳だと思いませんか。うまく折り合いをつける方法を考えずに、暴力に訴えるのは、相手が自分より弱い子どもの時だけです。

 

 基本的に人は自分の立場を計算し、自分より強いものには媚びへつらい、弱いものに対しては不遜な態度をとる卑怯な生き物なのかもしれません

 

 子ども扱いとは差別です。世の中には様々な差別がはびこっていますが、児童虐待の根っこにあるのは、子どもを子ども扱いしてしまう差別意識だと思います。つまり児童虐待とは、差別による人権侵害行為なのです。法務省のHPで「主な人権課題」のひとつに、「子ども」が挙げられています。児童虐待問題は、厚労省の福祉政策だけでなく、司法による介入が必要な課題なのです。

 

 新型コロナウイルス感染症による社会不安が覆う日本のどこかで、今この瞬間も児童虐待が発生しているやもしれません。長引く自粛要請による大人たちの不安や欲望の捌け口にされる子どもを救うには、子どもをひとりの人間として考える人権意識が必要です。子どもは親の所有物ではありません。     R.02.04.11