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自粛要請と体罰 言葉の持つ重み

 自粛。自らの意思で自身の言動を正すこと。

 要請。必要なことを強くお願いすること。

 

 自粛とは自律的な行為を意味するはずですが、「自粛要請」という表現では、他者の意図に沿って他律的に慎むこととなり、本来の自粛の意味が打ち消されています。「強制ボランティア」にも通じる不可解な表現です。要請する側がお願いをしておきながら責任を取りたくない場合に、都合の良い表現なのかもしれません。責任を丸投げされた要請を受ける側としては、言葉の意味を理解すればするほど混乱します。

 

 体罰。身体的な罰。

 

 罰とは、罰せられる側に何らかの落ち度や悪意があった場合に科せられるものであり、罰する側と罰せられる側との相対的な上下関係が背景にあります。虐待行為を体罰と呼ぶのは、罰する側の罰する行為に対する責任を、罰せられる側に丸投げする責任回避の思考が働くからです。「体罰を受けた子どもたち」と聞くと、子どもたちにも何らかの非があったのではないかとか、保護者の苦悩や葛藤があったのではないかと考えてしまいませんか。

 

 自粛要請と体罰。同じ文脈で使われることはあまりないでしょうが、どちらの言葉も権力者側の責任回避の道具として利用されているように感じます。また、規範意識が強い人に浸透しやすい言葉とも感じます。

 

 人々の活動を制限するのにも費用がかかるのは、市場原理主義社会では常識だったのではないでしょうか。「自粛要請」などと不可解な言葉を利用し、つましく生活する支配される側の人々の善意におんぶにだっこでは何のための権力なのかわかりません。また、相次ぐ虐待事件で犠牲になる子どもたちに悲しみを寄せる多くの人々も、「体罰」という言葉が虐待の原因を子どもたちになすり付けてきた事実から目を背けてはいないでしょうか。力の強いものが力の弱いものを権力で支配する仕組みが言葉によって補完される現実が浮かび上がります。

 

 普段何気なく使われる言葉に、意図しない意味や意図して隠したい意味が含まれることがあります。言葉の持つ重みをしっかり受け止めたいと思います。     R.02.03.31