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「小さな政府」のほころび

 平成29年7月九州北部豪雨から2年。甚大な被害が発生した福岡県朝倉市で仮設住宅入居期限が迫っています。慣れ親しんだ住まいから仮設住宅への転居を余儀なくされたうえ、その仮設住宅からも転居を求められる状況。被災者の基本的人権としての居住権をないがしろにし、単に心情を慮る道義的な問題として、問題の矮小化もしくはすり替えが行われようとしている様子に不安を感じます。そこに被災者の公平性という考えが持ち出されている様ですが、はたして公平性とはいかなるものでしょうか。

 

 「居住福祉 早川和男著 岩波新書」からの引用をご覧ください。

 

 【一九九七年八月七日、ポートアイランド第六仮設住宅でひとり暮らしのIさん(女性、五三歳)が死んでいるのが発見された。死後三日で、餓死に近い衰弱死と警察はみている。Iさんは糖尿病で働きにいけなかった。料金滞納のため七月三〇日付で水道の供給が打ち切られていた。室内には現金も預金通帳もなかった。電気・ガスは通っており、冷蔵庫には食べかけの豆腐一丁、飲みかけの清涼飲料水一本しかなかった。市水道局の担当者は「仮設住宅の被災者といえども、公共料金である以上、滞納が続けば止めざるを得ない」と語っている(『毎日新聞』一九九七・八・八)。

 水道は、いのちの源であり、生命維持装置である。まして生活基盤を破壊され絶望の中にいる被災者に対してである。公共料金だからこそ、被災者に対処できるはずである。主要なマスメディアも、市内版にかぎるとはいえ、今回は批判している。

「非情の行政、水道止める」(『毎日』、前出)、「だれのための行政か、市のごう慢さに憤り」(『読売新聞』一九九七・八・十九)。】

 

 現在の日本では自助努力による住宅確保が当然とされています。つまり住まいは私的財産であるのでその確保は各々の責任で何とかしなければならないという考え方が人々に浸透しているのです。自己責任論が闊歩し基本的人権が追いやられる状況が災害により顕在化しているのに、そのことに気付かない、もしくは気付いても無視する風潮を朝倉市の問題から目の当たりにしたように感じ、冒頭の不安につながりました。

 

 公平性とは市場主義経済においては割り算の様な単純なものかもしれません。しかし行政において同じ割り算を用いると、引用のような不幸を生んでしまいます。

 

 今年も災害は必ず起きます。せめて被害が最小限になるように、そして万一被災される方が出ても基本的人権を念頭に支援が行われるように願います。     R.01.06.12