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主体と客体 色即是空空即是色

 「仏教哲学は、”空”の哲学である。それは自己同一の哲学である。自己同一は、単なる同一性と区別されねばならない。単なる同一性においては、同一視されるべき二つのものがある。しかるに、自己同一性においては、一つの対象、あるいは一つの主体あるのみで、一つっきりしかないのである。そして、この一なるものが、自己を出ることによって、自己同一であることを証するのである。このように自己同一は動きを孕んだものだ。このことに頷けば、自己同一とは、自らの中に映じた自己を見るために、自己を離れる心であることが分かる。自己同一性は純粋経験、すなわち、”空”の論理である。自己同一においては、何らの矛盾というものもない。仏教徒はこれを”ありのまま”と呼ぶ。」

 【「神秘主義 キリスト教と仏教」 著者:鈴木大拙 翻訳:坂東性純・清水守拙 発行:株式会社岩波書店】

 

 ありのまま。最近ではジェンダーや多様性を想起する言葉となっています。人は自分は何者かと考えるとき、自分自身を客観的に眺めようと努力します。しかし自己を客体として見れば見るほど、主体としての自己を見失う矛盾に陥る危険性があります。さらにグローバル化やインターネットの普及によって異質な文化に触れる機会が増えた現代。異質なものに映じられた自己を見て、自己防衛本能から文化的枠組みに自らを閉じ込め、自らの中に映じた自己を見ることを忘れ、多様性どころか自分を見失う人々。ジェンダーや多様性の問題を解決する糸口は自己同一性に見つかるのではないでしょうか。

 

 自己同一とありのまま。日本人の人と違うことを恥じる感性は、学校教育の現場から徹底的に養われています。哲学を学ぶことなく道徳を教え込む現代の日本は、自己同一ではなく自己疎外を目指しているように感じます。自分の為ではなく、他人の為に生きる。道徳的価値観に囚われた人にとっては、とても心地よい表現かもしれません。しかし、自らの中に映じた自己を見た人にとっては、目に見えぬ牢獄そのもの。ありのままという意味を捻じ曲げている道徳は矛盾に満ちています。

 

 色即是空でとどまり、空即是色の景色を見ることのない世の中はとても虚しい。”空”の論理は無視され、自己同一をさせないための都合の良い言葉の切り取り。色即是空空即是色という、本来の意味を完成させると困る自力作善を望む富者にとって、他力本願にならざるを得ない貧者が”空”の論理に目覚めることほど恐ろしいことはありません。そこに海があるのは、見えない水の分子が存在するからです。つまり見えない水の分子が存在するから、そこに海があるのです。人と社会の関係も同じです。

 

 主体と客体の区別を誤ると、富の偏在を認める自力作善の自惚れや自助努力を強要する通俗道徳を正当化することにもつながります。それらを正す仏教の教えは、現代の民主主義思想にも通じるものがあるのではないかと感じます。

 

 最後に同じく「神秘主義 キリスト教と仏教」より、古の禅僧が”空”の心を月に喩えた言葉を引用したいと思います。

 

 心の月は孤絶して欠けるところがない

 その光は万象を呑みつくしている

 光が物体を照らし出すのでもなく

 物体が存するというのでもない

 光も物体も消え失せてしまったとすると

 残されたものは一体何であろうか?

                       R.04.01.23