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なぜ住まいの確保が自助努力になってしまったのかご存知ですか?

 多くの方々の住まい探しのお手伝いを生業としてきて疑問に感じることがあります。なぜ住まいを確保するための公助が削られているのか?その結果、住まい探しは自助努力の結果次第となっている日本の住宅事情はこのままで良いのだろうか?

 

 公営住宅法の第1条条文をご覧下さい。

(この法律の目的)

第1条 この法律は、国及び地方公共団体が協力して、健康で文化的な生活を営むに足りる住宅を整備し、これを住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃で賃貸し、又は転貸することにより、国民生活の安定と社会福祉の増進に寄与することを目的とする。

 

 日本国憲法第25条第1項には【すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。】とあります。そのうえで第2項で【国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。】と定めています。

 

 つまり公営住宅法とは、日本国憲法に定められている生存権を実現するためにあるものです。ただし、憲法条文にも「最低限度」とあるように、質を求める方向には向かない性質を持ちます。

 

 公営住宅ストックのうち約6割が築後30年以上経過したものです。同時に入居者の高齢化も進んでいます。更に入居率も減少し続けています。行政にお金がないからリノベーションも進まず、そのため、以前から住んでいた方は住み続けるが、新しく入居を希望する方から敬遠される負のスパイラル。地方財政の厳しさが浮き彫りになる現状です。

 

 しかし公営住宅の応募倍率は全国では5.8倍(平成26年度)と狭き門です。更に希望するエリアを限定するともっと大変です。これは、最低限度の生活水準を確保することすら許されない方が多数存在することを意味します。公助が削られ人権がないがしろにされている国を先進国と呼ぶことが出来るのでしょうか?

 

 残念ながら日本の住宅事情を俯瞰すると、人権を、自らの尊厳を守ることにも自助努力が求められ、自己責任論で切り捨てられる国であることが見えてしまうのです。

 

 では、どうして日本の住宅事情がこうなってしまったのでしょうか?

 

 大きな転換点は、1980年代にはじまるバブル経済です。土地神話がはびこり、地上げ屋が社会問題となったこの時期は、中曽根内閣が新自由主義に基づく政策を開始した時期でもあります。国による規制を緩和し、市場原理にゆだねる新自由主義は、世界経済の基本原則となり、社会の格差や分断を進めてきました。

 

 そしてバブル崩壊。その要因を市場原理の不徹底、つまりまだまだ規制緩和が足りなかったことなどと、失敗を教訓とせず、むしろ失敗の上塗りを続けてしまい、国鉄民営化にはじまる公共財のたたき売りは今、水道事業の民営化にまで及んでいます。そんな新自由主義によって、生存権のような人権も金で買うことが当たり前のことのように語られることとなったのです。

 

 コロナ禍は、新自由主義によって刷り込まれた「住まいの確保は自助努力」という考え方が、もしかしたら間違っているのではないかと人々に疑念を抱かせるきっかけになったのではないかと考えます。

 

 今月末には衆議院議員総選挙があります。「新自由主義=自由民主党」だったのですが、新しい自民党の顔となった岸田首相は新しい資本主義を掲げ新自由主義との決別をアピールしたいようです。かたやボトムアップの政治を掲げる立憲民主党の枝野代表は分配を重視する姿勢をアピールしています。どちらも格差社会解消を意識した考え方のようですが、住宅政策に関する踏み込みが足りません。

 

 選挙戦が進むにつれ、具体的な政策が聞こえてくるでしょう。その中で、住まいの確保が自助努力という人権を金で買うような現状を変えてくれる政党や候補者を見つけたいと思います      R.03.10.11