【「まつろわぬ者たちの祭り 日本型祝賀資本主義批判」 著者:鵜飼哲 発行:インパクト出版会】
「最大規模の「スペクタクルの政治」としてのオリンピックがローマ帝国の呪われた遺産を継承していることは、一九三六年のベルリン大会、ナチス・ドイツによる第三帝国五輪以来、明白だった。そして近年、その傾向はいっそう顕著になるばかりなのだ。」
「「政治」が元来「スペクタクル」と切り離せないとすれば、「政治」はもとより真理と相性が悪いことになる。」
壮大な見世物の前では真理はいとも簡単に吹き飛ばされるということを1年前に経験しました。政教分離が叫ばれる現在、オリンピックは宗教的要素が強いことにも気づかなければなりません。政治がスペクタクルと一体化することで、歴史修正も行われます。大衆操作のプロが受託収賄の捜索を受けていることの意味も、今の日本の現状を分析をするために考える必要があります。
鵜飼さんは、1985年の西ドイツのコール首相の発言「ドイツは歴史の前に、ナチの暴虐が引き起こした被害に対する責任を負っています。この責任はまた、時効なき羞恥のなかで表明されるものです。」と、同じ1985年の日本の中曽根首相の「首相として初めて靖国神社を公式参拝し、「国民国家は汚辱を捨て栄光を求めて進む」という講演」を恥という観点から比較分析しています。
「戦後四〇年の西ドイツでコール首相が「時効なき羞恥」を語ることができたのは、フランス人の精神分析家ルネ・マジョールによれば、それが自分の〈恥〉ではなく他者の〈恥〉、彼自身がもはや同一化していない、先行世代の〈恥〉だったからです。」
「反対に、現在なお日本の政治指導者が、戦争責任、植民地支配責任を直視し、具体的に事実を検証し、被害者にきちんと向き合って謝罪することができずにいるのは、先行世代との同一化が断ち切られていないことの徴候にほかなりません。」
客観的に歴史と向き合うドイツと違い、日本の政治指導者は先行世代と同一化して恥じているからこそ、歴史修正が必要なようです。同一化の根源には、世襲主義が根強い日本の政治事情もありそうです。
今はオリンピックの呪文が解け始めた時期かもしれませんが、まだまだ呪文の効果は続いています。先月のサッカー「なでしこジャパン」の試合は観客が少なかったそうです。ブームが過ぎ去ってしまい、メディアでは集客の課題があげられています。しかし、そのブームが「スペクタクルの政治」によるものだったのであれば、比較そのものはナンセンスです。
「異常な事態はすでに二〇一二年に始まっていた。この年の八月二〇日、東京の銀座では、ロンドン五輪で二位になった女子サッカーチームの凱旋パレードが行われた。参加者数は五〇万人とも言われたが、そこには間違いなく、当時高揚していた反原発運動から人々の耳目を逸らし、同時に二〇二〇年五輪招致に向けて東京都民の支持率を力づくでアップさせるという、二重の目的をもったメディアの動員戦略が働いていた。事実、都民の支持率は立候補時の四七%から、最終的には七〇%まで上昇したとされる。」
はたしてこの国で真理を求めることができるのでしょうか。そう言うと、真理を求めることに意味があるのかという言葉が聞こえてきそうですが、逆に虚構に生きる意味はあるのかと問いかけたいと思います。 R.04.08.01