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「非人間的な日本の街路」はどのように変化したか

 今回のブログタイトルは、日本を代表する経済学者である宇沢弘文さんの45年前の著作【自動車の社会的費用 宇沢弘文著 株式会社岩波書店発行】の目次タイトルを引用しました。

 

 痛ましい事故が繰り返される毎日。45年の歳月では歩行者の安全性を高めることは無理だったようです。伸びた雑草で歩けない歩道、途中で途切れる歩道、そもそも歩道が無いなど、国道、都道府県道、市町村道、管理行政の区割りの違いに関わらず歩行者がないがしろにされる道路がとても多い。そんな現状によって歩道があるだけマシと感覚が麻痺してしまった現在の道路は、45年前の道路より歩行者の危険度は増しているのかもしれません。

 

 毎日車道との境も白線だけのとても狭い歩道部分を歩いていると、自動車の通過時は常に身の危険を感じます。自動車を運転する人にとって歩行者は、人間ではなく単なる障害物なのでしょう。手を伸ばせば届く距離の歩行者の横を、減速するどころかスピードを上げて通過する自動車に出会う度に、そう確信するようになりました。道路上において運転者はまるで特権階級者であるかのような振舞いをします。「急いでいるから」は理由にならないと運転者が理解するのは、事故を起こした後なのかもしれません。しかしこの様な感覚に陥る状況は、果たしてヒューマンエラーとして片付けられる問題でしょうか。

 

 「クルマに乗ると人が変わる」とか「クルマの運転はその人の本性を暴く」とか危険な運転は運転者本人の問題として扱われていますが、道路の構造自体がそのような運転者心理に大きな影響を与えている様に感じます。まるで「お客様は神様」という時代錯誤な感覚と同じ様に道路財源となる様々な負担を負っているのだから、道路は自動車優先と勘違いしている人も多いのではないでしょうか。車道部分を確保してその余りでしか歩道を整備しない現状は、そんな感覚を肯定する一因となっているように感じます。

 

 歩行者の安全という基本的人権が確保されるのにあと何年の歳月が必要なのでしょうか。最近は交通戦争という表現を見かけませんが、歩行者の基本的人権を蹂躙しても平気な人間性が失われた運転者を生み出す現在の道路状況では決して戦後とは言えないと思います。     R.01.05.13